はじめに
21世紀の複雑な課題に対処するためには、論理的な分析力と創造的な発想力の両方を兼ね備えた人材の育成が不可欠です。近年、教育界と産業界では、批判的思考力(クリティカルシンキング)と創造的思考力(クリエイティブシンキング)を統合した「複合的思考力」の評価指標開発が注目を集めています。
本記事では、複合的思考力の理論的背景から既存の評価モデル、教育現場での実践例、企業での活用事例、そして新たな評価指標開発のフレームワークまで、包括的に解説します。
複合的思考力の定義と理論的基盤
批判的思考力と創造的思考力の相補的関係
複合的思考力とは、批判的思考力と創造的思考力を統合した高次の思考スキルを指します。批判的思考力は「何を信じ、どのように行動すべきかを判断する際の合理的で熟慮的な思考」として定義され、根拠に基づく合理的な判断を重視します。
一方、創造的思考力は「新しいアイデアを発想し、それを文脈の中で有用な形で適用する能力」とされ、直感や想像力を働かせて斬新な解決策を生み出すことに焦点を当てます。
収束的思考と発散的思考の統合モデル
心理学者ギルフォードが提唱した概念によると、批判的思考は論理や証拠に基づいてアイデアを評価・推敲する「収束的思考」であり、創造的思考は自由な発想で多様なアイデアを生み出す「発散的思考」に分類されます。
効果的な問題解決には、これら二つの思考プロセスを循環的に適用することが重要であり、柔軟に発想しつつ合理的に評価する統合的なアプローチが求められます。
国際的な教育カリキュラムでの位置づけ
オーストラリアの国家カリキュラムでは、「Critical and Creative Thinking」として両者を一体の能力として位置づけており、「幅広く深い思考」を支えるスキル群として包括的に扱っています。この統合的なアプローチは、単独の思考スキルでは対応困難な複雑な課題への対処能力を育成することを目指しています。
批判的思考力の評価指標とモデル
エニス・ファシオーネらの理論的貢献
批判的思考力の評価には、長年にわたり教育心理学や哲学の分野で様々な指標が開発されてきました。代表的な研究者であるエニスは、批判的思考の能力として「問題や論点に焦点を当てる」「論拠を分析する」「情報源の信頼性を判断する」「仮説を立てて検証する」「結論を導き評価する」といった一連のスキルを体系化しました。
ファシオーネらによるデルファイ研究では、専門家の合意から批判的思考の中核スキルを「分析」「解釈」「評価」「推論」「説明」「自己調整」の6つに分類し、加えて真理探究心や開放性などの思考態度(ディスポジション)を重視する枠組みが示されました。
標準化された評価ツール
現在広く活用されている評価ツールとして、ワトソン=グレイザー批判的思考力テストがあります。このテストは「推論」「仮説の評価」「演繹的推論」「解釈」「論証の評価」の5つの下位尺度で構成され、受検者の論理的思考力を総合的に測定します。
また、カリフォルニア批判的思考スキルテスト(CCTST)やハルパーン批判的思考アセスメントなど、大学生・一般成人向けに開発された測定ツールも存在し、これらは国際的に信頼性の高い評価指標として活用されています。
論述式評価と選択式評価の統合
批判的思考力の評価では、エッセイ形式による論述式評価と選択問題による客観式評価の両方が用いられます。論述式評価では受検者に与えられた議論を批判的に評価する文章を書かせ、多面的思考力を測定します。一方、選択問題では短文の論証に対する推論の正誤を判断させ、客観的に得点化できる利点があります。
近年では、自己評価用質問紙と技能テストを組み合わせ、学生自身の批判的思考態度と客観的な思考力水準の両方を測定する統合的なアプローチも研究されています。
創造的思考力の評価指標とモデル
トーランス創造的思考テスト(TTCT)の影響
創造的思考力の評価において最も影響力のある指標として、トーランス創造的思考テスト(TTCT)があります。1966年に発表されて以来、言語的創造思考と視覚的創造思考の2種類のテストを通じて個人の創造性を定量的に評価する国際的に普及した指標となっています。
TTCTでは、被験者に対して「ありふれた空き缶の独創的な用途を考える」「不完全な図形に手を加えて意味のある絵を描く」といった課題が与えられ、アイデアの量(流暢さ)、多様さ(柔軟性)、独自さ(独創性)、詳細度(精緻さ)に基づいて評価されます。
発散思考テストの多様な手法
TTCT以外にも、ギルフォードが考案したオルタナティブ用途テスト(ある物体の新しい用途をできるだけ多く考えさせる課題)や、メダニックらの遠隔連想テスト(一見無関係な言葉の関連性を見出す課題)などの発散思考テストが開発されています。
これらのテストは、アイデア産出の量と多様性を評価したり、連想の柔軟性を測定したりすることで、創造的思考の異なる側面を捉えています。
プロセス志向の評価モデル
創造性は問題解決過程全体で発揮されるため、プロセス志向の評価モデルも重要です。クリエイティブ・プロブレムソルビング(CPS)のモデルでは、問題の定義からアイデア発散と収束(評価)を繰り返す一連の思考プロセスに着目し、その各段階での学生の思考を評価します。
このモデルに基づき、チームでブレインストーミングを行わせて創造的発想力と批判的選択力を観察するルーブリック評価なども実践されています。
PISA2022の創造的思考力調査
経済協力開発機構(OECD)は、PISA2022において初めて創造的思考力を評価領域に加えました。「創造的思考とは『オリジナルで多様なアイデアの生成・評価・改善に携わるコンピテンシー』である」と定義し、15歳生徒を対象に筆記表現・視覚的表現・社会的問題解決・科学的問題解決の4文脈でテストを実施しました。
具体的な課題として「コミックのストーリー案をできるだけ考えさせる」「ある問題に対する解決アプローチを複数考える」といったオープンエンドの問題が出され、生徒が多様で独創的なアイデアを生成し、それらを評価・改良できるかが採点基準とされました。
教育現場での実践的応用例
日本の新学習指導要領での位置づけ
日本の文部科学省は、新学習指導要領において「思考力・判断力・表現力等」を育成すべき資質・能力の柱の一つに掲げています。探究学習の場面では、課題に対する生徒の問題解決策の独創性や論理性を教師が観察し、あらかじめ定めた評価規準(ルーブリック)に照らして評価する実践が各校で行われています。
ルーブリックの指標例として、「課題の問いの的確さ」「情報収集と分析の論理性」「解決アイデアの独創性」「発表での表現力と説得力」といった観点を複数段階で評価するものが活用されています。
オーストラリアの統合的カリキュラム
オーストラリアでは、Critical and Creative Thinkingを全教科横断の汎用的能力としてカリキュラムに位置づけ、学年ごとの到達目標と具体的な評価場面を提示しています。
小学校段階では「疑問に思ったことを質問にまとめ、情報を集めることができる」「集めた情報を比較検討して結論を出せる」といった形で評価し、中等教育段階では「複数の視点から問題を分析し、創造的な解決策を提案、その利点と欠点を批判的に評価できる」といった高度な指標に発展させています。
探究サイクルによるプロセス評価
OECD参加校では、授業内で探究サイクル(問い立て→アイデア発散→振り返り→改善)を実施し、その各段階で生徒が示す思考の質を教員がチェックリストで評価する手法が採用されています。
この評価の目的は単に成績を付けることではなく、生徒に思考過程の気づきを促しメタ認知を高めることにあります。複合的思考力評価を適切にフィードバックすることで、生徒自身が強み・弱みを把握し自己成長につなげる効果が報告されています。
採用・人材評価での応用例
労働市場での需要増加
世界経済フォーラム(WEF)の報告によれば、2025年以降の労働市場で特に需要が高まるスキルの筆頭に「分析的思考力(Analytical/Critical Thinking)」と「創造的思考力(Creative Thinking)」が挙げられています。
グローバル化と技術革新が進む現代のビジネス環境では、従来の知識や単純技能だけでなく、問題発見・解決に直結する思考力が重要視されています。
採用プロセスでの評価手法
欧米企業では、応募者の創造性や論理思考力を評価するための適性検査や課題が採用プロセスに組み込まれることが多くなっています。コンサルティング業界や法律業界ではワトソン=グレイザーの批判的思考テストが応募者選抜に使われ、IT・ハイテク企業では、ケース面接やハッカソン型課題を通じて、応募者の創造的かつ論理的な問題解決能力を評価しています。
人事コンサルティング会社の調査によると、批判的思考力テストの結果は管理職や専門職の将来の業績と相関があるとの報告もあり、客観テストを活用して採用のミスマッチを減らす企業も増えています。
社員育成・評価制度への統合
採用後の社員育成や評価制度にも複合的思考力の視点が取り入れられています。社内研修でクリティカルシンキング研修やデザイン思考ワークショップを実施し、その中で受講者の思考プロセスやアウトプットを評価する例があります。
また、人事評価の項目に「新規アイデア提案数」「課題解決への主体性」といった創造・批判思考に関する行動指標を組み込み、単なる業績数値と併せて評価する企業も増加しています。一部の欧米企業では、社員のアイデア提案が事業にもたらした価値や、意思決定の妥当性(判断ミスの低さ)などをKPIとして設定する動きも報告されています。
複合的思考力評価の設計手法
定量的スコアによる客観評価
標準化テストや評価尺度を用いて数値スコアで測定する方法は、客観性・信頼性が高く大規模集団の比較が容易な利点があります。TTCTでは流暢さ・柔軟さ・独創性といった各指標に点数が付与され、創造性を総合得点で表します。
PISA2022の創造的思考力調査では、各国生徒の能力を0~60点の尺度で評価し国際比較を可能にしました。定量評価は数値により分かりやすく能力を示せる反面、思考のプロセスや質的側面を捉えにくいという課題もあります。
ルーブリックによる多面的評価
ルーブリックは、評価したい能力について複数の観点(評価基準)を設定し、各観点ごとに段階的な達成度記述を用意した評価表です。複合的思考力を評価するルーブリックでは、「問題の理解・定義」「情報や証拠の分析」「アイデアの独創性」「結論の論理性」「振り返りの深さ」等の観点を設け、それぞれに3~5段階の記述で評価します。
米国の大学教育協議会(AAC&U)が策定したVALUEルーブリックでは、批判的思考について「課題の明確な説明」「情報源の適切な利用」「前提の検討」「立場の論証」「結論の導出と結果の評価」といった基準が定められています。
行動指標の観察による実践的評価
複合的思考力は直接観察可能な行動や発言として現れるため、それらを指標化して評価する方法も有効です。授業中のディスカッションで、生徒が「自分の意見の根拠を説明した回数」「他者の意見に対し質問や代案を提案した頻度」「新しい視点を持ち込んだ度合い」等をチェックリストで観察することができます。
創造的思考力の行動指標としては「独創的な質問を発する」「従来と異なるアプローチを試みる」、批判的思考力の行動指標としては「根拠に基づいて主張する」「情報の真偽を確認する」「議論の矛盾点を指摘する」といった行動が挙げられます。
新指標開発のフレームワーク
複合的思考力の構成要素
既存の研究やモデルからは、複合的思考力を構成する主要な要素として以下のようなものが抽出できます:
問題の捉え直しと問いの立案 与えられた状況を批判的に検討し、本質的な問題を定義したり新たな問いを立てたりする力。例:「何が本当の課題なのかを見極め、明確に言語化できる」。
情報の分析と評価 必要な情報を収集・整理し、その信頼性や妥当性を評価する力。例:「証拠やデータを多面的に比較検討し、論理的に結論付けることができる」。
多様なアイデアの生成 固定観念にとらわれず、多角的な視点から複数の斬新なアイデアや解決策を発想する力。例:「一つの問題に対して相互に異なるタイプの解決策をいくつも考案できる」。
アイデアの洗練・実行計画 発想したアイデアを批判的に見直し、実行可能な計画に練り上げる力。例:「提案したアイデアの利点・欠点を評価し、改善策を講じて実現可能なプランにまとめられる」。
思考過程の内省 自らの思考プロセスを客観視し、省察する力。例:「自分の発想や判断の前提に気づき、必要に応じて考え方の枠組みを修正できる」。
態度・ディスポジションの重要性
複合的思考力を支える性向や態度として、知的好奇心(常に問いを持とうとする姿勢)、開放性・公平さ(先入観にとらわれず多様な意見を聞き入れる)、粘り強さ(答えがすぐ出なくても試行錯誤を続ける)などが重要です。
これらの態度面は行動観察や自己評価質問紙で測定可能であり、思考力評価の補助指標として有用です。
測定項目の具体例
新たな評価指標を設計する際の測定項目例として、以下のようなものが考えられます:
項目例1:社会問題分析課題 「与えられた社会問題について、その原因を批判的に分析し、新しい視点から解決策を3つ提案せよ。」 評価観点:原因分析の論理性+提案の多様性・独創性+各提案の実現可能性評価
項目例2:論述エッセイ課題 「短い文章を読み、その内容に対するあなたの意見を400字で述べなさい。但し自分の主張を裏付ける根拠を2つ挙げ、新規の例または比喩を用いて説明すること。」 評価観点:主張の明確さ+根拠の適切さ+例示の創意工夫+論理的構成
項目例3:グループ問題解決課題 「制限時間内にできるだけ多くのアイデアを出すブレインストーミングを行い、その後でグループとしてベストの解決策を選択し理由を述べなさい。」 評価観点:アイデア数・多様性(個人)+最終案の質と論理(グループ)+議論への貢献度(個人観察)
信頼性と妥当性の確保
新たな評価指標は信頼性(一貫した測定ができること)と妥当性(測りたい能力を適切に測れていること)を確保しなければなりません。複合的思考力のように多面的な構成概念では、各下位能力間の関連や全体像をモデル化しておくことが重要です。
構造方程式モデリング(SEM)を用いて、批判的思考力因子と創造的思考力因子が高次の総合思考力因子にどの程度寄与するか検証するアプローチも考えられます。両因子が独立であっても相関する場合、指標としては二軸プロファイルで報告する(例:クリティカルシンキング得点×クリエイティビティ得点のマトリクス)といった方法も有効です。
まとめ
複合的思考力の評価指標開発は、教育界と産業界の両方において急務の課題となっています。批判的思考力と創造的思考力を統合したこの高次の認知スキルは、21世紀の複雑な問題に対処するために不可欠な能力です。
既存の理論的基盤や評価モデルを活用しながら、定量的スコア、ルーブリック、行動指標の観察という多面的なアプローチを組み合わせることで、より包括的で実用的な評価指標の構築が可能になります。
今後の課題は、これらの理論的知見を日本の教育・雇用文脈に適合させ、信頼性と妥当性を備えた評価項目を開発し、教育現場や企業で活用しやすい形で実装することです。複合的思考力の適切な評価により、創造性と批判力を兼ね備えた次世代人材の育成が促進され、社会全体のイノベーションと健全な意思決定力の向上が期待されます。